赤崁樓

赤カン楼
発音:せきかんろう
   
住所 臺南市中西區民族路二段212號
営業時間 AM 8:00~PM21:30
電話番号 (06)2205647
定休日

 
台湾本島で最も古い城跡は「赤カン楼(せきかんろう)」です。原名は「Provintia (プロヴィンティア城)」と称えられます。オランダ人によって建築された赤カン楼は派手な中国式の城跡には見えません。しかし、赤カン楼の文昌閣の柱脚で城門のような跡を掘られたことがあり城門からどこか行けるような感じですが、その上の古跡を壊さないように下まで掘らないようにしたそうです。展覧室では赤カン楼の建築についての模型と史料が紹介されています。

 

 

1624年にはオランダ人によりZeelandia (ゼーランディア城)が建築されました。その当時、オランダ人は淡水(台湾北部・台北近郊)を占拠しようとしましたができませんでした。台湾の貿易が盛んになり、台湾へ移民して来る人も増えてきたため、台湾本島へ発展しました。ゼーランディア城は台湾統治の中心となり、プロヴィンティア街(現在の民権街)と台湾街(現在の延平街一帯)が一番繁栄していました。

1652年に「郭懐一事件(オランダ人の厳しい統治に反発して起こされた事件)」が起こり、オランダ人はより堅固な城跡を建築する事を決め、1954年にプロヴィンティア城を建築しました。場所は赤カン一帯にあるので、「赤カン楼」か「紅毛楼」とも呼ばれました。

 

権力中心の崩壊

1661年に鄭成功はプロヴィンティア城を占拠し、オランダ人が降伏したため38年間続いたオランダ統治は終焉を迎えます。プロヴィンティア城は東都承天府と改められ、その時の最高行政機関となりました。プロヴィンティア城は堅固で、火薬貯蔵庫として使われていました。赤カン楼は台湾の清朝統治時代にも火薬貯蔵庫として使われて、台湾府は東安坊(現在の憲兵隊)に移転しました。

清の同治年代に赤カン楼では大土殿(崩壊した)が造られ、清の同治十三年には(1874年)に海神廟の建築が開始され、4年後に完成しました。清の光緒十二年(1886年)蓬壺書院(門だけ残す)、文昌閣と五子祀(崩壊した)が加えられ、廟、閣、院、殿と祠を含んだ建物となりました。

日本統治時期に赤カン楼は陸軍衛戌病院として使われ、また大正七年1918年)には日本語学校としても使われていました。一階にある西門と西北方位にたくさんの石碑があり、「台南三處碑林(台南を代表する石碑として選ばれた3か所)」の一つになります。石碑を刻まれた絵を見ると、赤カン楼の前に海が描かれており、河岸と船も刻まれています。この石碑を見ると、台南の地形が変化したことが分かります。石碑以外は石馬もあります。

 

 

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